龍書房。1959年刊、初版。非貸本。両表紙に汚れ・茶ジミ、背表紙にヤケ・汚れ。カバーの角および端に少ヨレ、表面にスレ・傷、背にヤケ、前の袖にヨレ・折れ。カバー・本体ともに経年のシミ・汚れがかなりあり。後ろの遊び紙に値札のはがしあと
*1958年から翌年にかけて、主として貸本屋向けの時代小説や風俗小説を十冊程度、出したマイナー出版社から刊行された、唯一のミステリであり、今官一のミステリとしても唯一の単行本
【収録作一覧】
「煙が目に沁みる」
一週間だけの契約で《ゴールデン・ゲート》に出演中のスネーク・ダンサーのリリイ浜田は、たいそうな野球のファンで、きさくで、スポーティーで、いい顔と、いい体の持ち主。そんなリリイがぼくたちの野球の選手なら、ぜんぶとでも、デートをしてもいい意志をもっていると知って、野球部員たちは色めきたつ。たちまちデートの約束でリリイのスケジュールは埋まり、九人の選手のうちの三人があぶれることになった。リリイの好意で、あとひとりだけデートをしてもらえることになり、酒興のなかで、ぼくは〈鉄の爪〉の異名を持つ、豪腕投手にデートの権利を譲ることにする。ところが、〈鉄の爪〉の先祖はシベリヤから奇怪な宗教を持って帰ってきていた……。
さらっと読むと、甘酸っぱくもほろ苦い青春小説のように映るが、熟読すればするほど、まぎれもないミステリであることがわかり、慄然とさせられること請け合い。
「震生湖」
エリは、終戦後、五年もたってから届いた兄の遺髪を埋葬したあと、冬木先生に誘われて、山の頂にある湖にいっぺんだけ行ったことがある。気分転換をさせてやろうと誘ったのだが、エリがそれに応じたのは、やわらかい腕に肩を抱かれて歩きたい、という目的があったからだ——という、坂田エリの回想に、記者の私は疑問を抱く。山の上に湖はあったものの、本人のいい分とはディテールがだいぶ違っていたからだ。二十三歳のエリは元赤線の接客婦になっており、街頭で客をひいて、刑事につかまっていた。警察ではきつい説教をして返してやるつもりでいたところ、この手で兄さんを殺したと、役人の前で真に迫った扼殺の様子を見せた。気がふれた末の妄想の可能性もあったが、新聞記事でエリの兄殺しの件を知った、冬木先生こと冬木ハルが、エリの無実を証明してほしいと、私の勤務する新聞社を訪ねてくる。ハルの証言でエリの記憶のたしかさが裏づけられると思われたのもつかのま、両者の記憶にやはりくい違いのあることが明らかになる。それを受けて、わたしはひとつの推理を新聞社のデスクである社会部次長に披露するが……。
こちらも、巧みな構成の光る短編で、異常心理への踏みこみは、マーガレット・ミラーを彷彿させる。
「脱出屋」
女のおめがねにかなったぼくは、女といっしょにホテルに向かう。オレゴン生まれの二世とその女ボスというていで部屋に入るや、女はコルトを外套のポケットからひきだし、それを豊かな胸もとでチラつかせながら、「おとなしく、するわね」と、いってくる。ぼくにとっては、三ヶ月ぶりにありついた仕事で、しばらくして目を覚ますと、二世の軍人という身分証が用意されていた。不気味なことに、脱いだときには一銭もなかった上衣とズボンのあらゆるポケットに、ぎっしりと紙幣(さつ)たばがつまっており、八千ドルもあった。聞けば、立川基地から飛行機で発つことになっており、三ヶ月過ぎたら帰ってきてもいいという。
脱出屋という物語の語り手の立ち位置が絶妙で、自身が女から命じられた奇妙な仕事の真相が物語の終盤で明らかになったあとも、「俺は、逃け屋(ふけや)だ」と、淡々と受け入れるさまがすがすがしい。
「女のリスト」
下町の議員さん殺しのニュース映画を三本もくりかえして見せられたあと、映画館を出た私(仙吉)が狩場の久六を見かけて声をかけたところ、ワンさんが自分の居場所を捜していると教えられる。翌朝、久六からの催促の電話を受け、盛り場の真中にあるワンさんこと王大洪の私宅に向かうと、それは下町の議員さん殺しに使われた凶器に関わる件で、私の素性が明らかになると同時に、私は王大洪から女がらみのあることを命ぜられる。
こちらは、クールなノワール風味の短編。
「女は三回勝負する」
探偵の私は、車田清八が女房の腕を叩き折った事件の調査をしている。事情を知っていそうな金泰英に酒場で会ったところ、アル中の女のほうが酔っぱらってひとりで階段からころげおちた、という意外な話を聞かされる。後日、金泰英の語ったところによれば、私に調査を依頼してきた、車田の女房のエミはとんだ悪党で、十八のときに最初の亭主をバラして二審で無罪となったあと、何度も結婚をくり返しているらしい。別居中のエミの寝室からある物を持ち出して車田のアパートに向かった私は、とある行動をすませたのち、警視庁の知り合いの刑事に電話をかける。
車田、エミ、金泰英、そして探偵の私の思惑が交錯することで、事態は狐と狸の化かし合い的な様相を見せ始め、だれがその割りを食うことになるのか、予測不能の物語が展開する。ハードボイルドや私立探偵小説のオマージュあるいはパロディといった要素もあり、表題も秀逸。
「第四船倉(ハッチ)を開けるな」
物語は、晴海埠頭の岸壁に停泊中の英国貨物船の第四番ハッチの中段から、白人の腐乱した全裸死体が発見され、それが経由地のサイゴン出発の際に行方不明だったアクバル・アルダワイとわかり、泥酔による過失死の見方が強いという、新聞記事から幕をあける。武庫長助法律事務所の武庫から新聞記事を手渡された私は、記事が嘘っぱちを並べていると決めつける。私は一年ぶりに東京に戻ってきたボロ船のチーフの矢間(やま)で、死者が国事犯であることを承知していたからだ。国際的事件はさらなる拡がりを見せ、解剖に立会い人として呼ばれていた沖仲仕が中央市場の掃留堀のなかで死んでいるのを発見される。
物語の語り手兼主人公の私こと矢間は、探偵に近い立ち位置ではあるものの、みずから国際的な事件の渦中に飛びこみ、危機的状況に陥る。いささかアンフェアなきらいがなくもないが、最後の一撃にかけた作品で、最後の場面は強烈な印象を残す。
「最後の欲情」
「第四船倉(ハッチ)を開けるな」に続いて、私こと矢間が登場する。御殿場の富士キャンプでちょっとばかりぼろいシマを張っている、元ポースンの利尾仙六のところから長距離電話がかかり、代人らしい若い男から利尾からという伝言を聞かされる。それは、見せたいものがあるので、クリスマスまでにマンデリン・ハウスに来てほしいというもので、御殿場に直行し、マンデリン・ハウスの事務所に顔を出すと、意外なことにそこで出迎えたのは見慣れない小ぶとりの男で、聞けば、前の年の暮れから利尾に代わって、マンデリン・ハウスを経営しているという。久万田(くまだ)と名乗ったその男は、そのあとの利尾の消息は知らないとうそぶく。だれが自分を呼び寄せたのかもわからぬなか、私が通された部屋で待っていると、五年前にはボイラー・マンをしていた天助が小ぎれいな服装現れ、預かってほしいとマッチ箱大の黒い紙の包みを差し出す。その天助の立ち去ったあと、昔なじみのミサキが転がりこんでくる。「あたし、あたし——殺される……」とひどく怯えたようすで、そうこうするうちに、廊下の行きどまりの非常口のほうから鈍い銃声が響き、それを耳にしたミサキは気を失う。このあと天助が非常梯子から転落死しているのが見つかり、私は否応なしにふたたび血なまぐさい事件に巻きこまれていく。
こちらも終盤の衝撃が群を抜いた作品で、私の目にする地獄絵巻のような光景がやはり強烈な印象を残す。
「角瓶の中の処女」(本の表題とは少し表記が異なっています)
進駐軍基地のある百舌子村の酒場で処女が消えるという不可解な事件が起きる。ケミカル(化学科部隊)の腕章をつけた米兵のヘネガンが「トコリ」なる酒場に入ったところ、女が消え失せてしまったのだという。マスタアの平作は、そのときに限って、おりあしく仕きりのカアテンにかくれて、店の奥にいたらしく、その現場を目にしていなかった。そのため、ヘネガンの主張の信憑性は低く、なかには、脱兎の如く現われた処女が、ふたたび脱兎の如く、外界の闇にサアッと姿を消した、という説をなす者もいなくはなかったが、そんな超人技はおよそありそうにもなかった。百舌子村には、〈ミネヤ・ポリス〉の愛称呼ばれている、前原おみねちゃんなる婦人警察官が配属されており、平作とは幼稚園以来の幼馴染であったことから、この処女消失の謎に興味を惹かれ、怪事件の真相をつきとめる。
消失トリックはホックの某作品を彷彿させるオリジナリティのあるものだが、全体的な手ざわりはバカミスのレベルに近い。消失の謎が解けたとたん、さらなる事件が浮かびあがってくる構成も巧みで、最後の平作と私(スリラア作家らしい)との会話のなかで人をくった真相が明かされるあたりの構成も、うまい。平作のことを「おにいちゃん」と呼ぶ、みねちゃんのキャラも魅力的。
*受領後はすみやかに「受け取り連絡」をお願いします