ラムネー(Flicit-Robert de Lamennais, 1782~1854)はフランス・カトリックの聖職者であり思想家で、キリスト教社会主義者だった。ブルターニュ地方の富裕な船主で貿易商をかね、貴族の称号をもつ父のもとに生まれた。独力でラテン語・ギリシア語やその他の近代語の初歩を学び、18世紀の啓蒙思想に感化され、特にルソーに深く傾倒した。1797年にパリに赴き、古代言語や文学、教皇や正統派の論議、聖職者の伝記や護教家の論説の研究に没頭後、1808年に『18世紀のフランスにおける教会の様相と現状に関する考察/Rflexions sur l'tat de l'glise en France pendant le 18ieme sicle et sur sa situation actuelle』を公表。1811年、兄が設立したサン・マロ神学校に入り、もっぱら数学の勉強をした。1814年には兄との共著になる『カトリック教会の伝統/Tradition de l'glise』を出版。後イギリスに渡って亡命貴族の擁護者であったキャロンという司祭に会い、その感化を受けてフランスに帰った1816年に僧侶となった。1817年に主著『宗教に対する無関心論/Essai sur l'indiffrence en matire de religion』の第1巻を発表し、1820年に第2巻、1822年から23年に第3巻と第4巻を公表し、カトリックの賞賛を受ける一方、自説を擁護する際の極端な論法や激越な語調が聖職者たちに反感をおぼえさせ、宗教界の議論の的となった。この著書は無神論者はもとより、理神論・プロテスタント・自由主義・議会制度・大学教育・フランス革命などを難詰するものだったため、フランスの聖職者・政府の疑念を招き、ローマ教皇・レオ12世の承認を得て一時的な仲裁がなったほどであった。論争につぐ論争、極度の心労のために1826年から重い病気にかかり、保証人を引き受けた書店が倒産し、彼自身も破産することになる。この時期が彼の思想の転機となり、1828年『大革命の進歩および教会に対する闘争/Les Progrs de la revolution et de la guerre contre l'glise』を出版し、「世界を救うべき真理が本来の進歩を遂げるためには、広汎な自由が必要」と論じ、自由主義にも一定の譲歩を示しつつ、自由な言論を弾圧していたシャルル10世の為政を攻撃した。1830年革命の時期に新聞『未来/Avenir』を創刊し、教育と出版の自由、政教分離、僧禄の国庫支弁の廃止、教皇とフランス政府の和親条約の廃止などを訴えた。さらにこれらを実現するために普通選挙の施行と、広範囲にわたる地方分権を主張した。その年の11月に『未来』は司教制度を論じた文により、重罪裁判所の審議にかけられたがこれは無罪と決した。更に宗教的自由擁護のための全国委員会/Agence gnrale pour la dfense de la libert religieuse設立し、1831年に文部省の許可なしに小学校を開設しようとして官憲により閉鎖されるも、各地で抗争を展開した。この後ラムネーは教皇を至上とする思想から離脱し、サン・シモンの流れをくむ独特の社会主義者として活動を展開し、1848年の二月革命後に新聞『立憲民衆党/Peuple constituant』を創刊してパリ地区から国民議会の代議士に選ばれ、憲法制定議会に所属した。