ウォン・カークイ死亡事故とその影響
1993年6月24日未明(午前1時10分ごろ)、フジテレビ第4スタジオで人気コーナー「やるやらクエストII」(1993年7月10日放送予定)の収録中、ゲストとして参加していた
香港のロックバンド
BEYONDの
黄家駒(ウォン・カークイ)がセットから足を滑らせて転落して頭部を強打し、意識不明の重体(急性硬膜下出血、頭蓋骨骨折、脳挫傷)となって
東京女子医科大学病院に搬送される事故が発生した。この事故では内村も転落しており、全治2週間の打撲傷を負った。水槽を囲んだ舞台上で宝物を奪い合う場面で、舞台が水で濡れていたため黄家駒と内村の2人が足を滑らせ、ベニヤ板で作られた背景パネルにぶつかった。衝撃でパネルが倒れ、高さ2メートル30センチメートルの舞台セットから2人とも転落した
[2][3]。当時現場にいた関係者によればそのセットは水浸しになっていたといい、セットの下に緩衝材を設置するなどの安全対策は何らとられていなかったという
[4][5][6]。内村はこの時のことを「後ろから崩れるような音が聞こえ、気がついたら転落していた」と振り返っている
[7]。
6月26日、番組冒頭に「先日、番組収録中に事故があり、皆様にご心配をおかけしましたことを おわび申し上げます。負傷されたウォン・ガークゥイさんの一日も早い回復をお祈り申し上げます。」とのテロップを表示し、通常通り放送された。番組の最後には、内村が「来週のやるやらはまたナイターでお休みでございます。再来週
7月10日にお会いいたしましょう」と予告した。しかし、この日の放送が
結果的に最終回となる。
7月2日、この日の日中に黄家駒の遺体を納めた棺が香港に無言の帰国を果たす。夜には有楽町の
ニッポン放送でウッチャンナンチャンの2人による謝罪の記者会見が行われ、「彼の分まで頑張っていきたい。残されたメンバーも僕らで役に立つことがあったら、また仕事をしたい」と涙ながらに謝罪した
[7]。会見後の25時(7月3日1時)、内村が『
ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』の番組冒頭より今回の事件に関して二人の口から語られ、黄家駒への追悼としてBEYONDの曲をかけ、リスナーから届いた励ましの便りなどを紹介した。
土曜20時枠は、上述の6月26日の放送で予告された7月10日にJリーグ中継
[注釈 10]、7月17日に上記の「あなたの心のスター大全集!!」が放送。
7月31日、土曜20時枠は『人気バラエティ感動の最終回大特集!』が生放送され、冒頭で
露木茂による本番組打ち切りのお詫びと黄家駒への追悼の挨拶がなされた。この際、露木が「秋から形を変えてウッチャンナンチャンには頑張ってもらいます」と説明し、秋からフジテレビでのウンナンの新たなレギュラー番組が予定されているのを示唆するものだったが、実際は番組制作会社(
イースト)・制作スタッフの異なる『
ビートたけしのつくり方』へのレギュラー出演だった。
12月26日、フジテレビと黄家駒の遺族が補償問題に合意し香港で調印した
[13]。
さらに3か月後、1994年12月28日の15:00 - 17:25に『ウッチャンナンチャンの年末ジャンボ総集編』を放送
[注釈 11]。『誰やら』『やるやら』の総集編とともに『やるやら』未放送の「ウチムラセブン 第6話約束」が放送された。
その後
この事件をきっかけとして、しばらくの間出演者・内容を含めた『やるやら』全体に対するバッシングがマスコミによって行われ、これについて
松本人志(
ダウンタウン)は自身の著書「遺書」の中で、「ウンナンもスタッフも番組を面白くするために必死に頑張った。そこはきちんと認めてあげなきゃいけない」「(謝罪会見やバッシングなど)ウンナンだけに責任を押し付けようとしたマスコミや偉い人にも責任がある」と述べている。
死亡の知らせに病院に駆け付けた内村は、「自分のせいだ」と泣き崩れたが、BEYONDの他のメンバーに「あれは事故だった」と励まされた。大きなショックを受けた内村と南原は引退も考えたが、黄家駒の遺族らから慰留され、復帰を決意した
[15]。
死亡事故による打ち切りという不本意な幕切れとなった番組だが、同局の過去に放送された番組を振り返る番組や、ウンナンが出演するバラエティ番組(前述の『ありがとやんした!?』や『笑う犬』)では番組の映像を交えて紹介されることがあり、
2009年10月10日放送のフジテレビ50周年記念特番『
記録よりも記憶に残るフジテレビの笑う50年 〜めちゃ×2オボえてるッ!〜』でも当番組が紹介された。また、2009年12月25日には、『ウッチャンナンチャンのやるやらフォーエバー』として、『誰かがやらねば!』時代の映像とともにDVDボックスが発売された。そして、2009年
12月23日に実に16年半ぶりに特番(南原曰く宣伝)として
ハイビジョン制作で放送された。このとき、過去の思い出などをちはると語った。
1998年から始まった『
笑う犬の生活』のサブタイトルには「YARANEVA!!」と付けられている。その背景には、不慮の事故で終わってしまったこの番組への、出演者・スタッフの想いがある。このサブタイトルは、相方の南原に許可をもらって、内村が付けたものである。
芸能評論家の
宝泉薫は、テレビ誌のコラムのためにこの事故が起きる1か月ほど前に当番組を取材していたが、その際にプロデューサーの態度に驕りを強く感じたとのことで、このようなプロデューサーの元の収録現場について「危機管理が緩く事故が起きやすい。あの事故は人災だと思っている」と後日そのような見解を示している
[16]。