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広瀬栄一コレクション拓本10-16●昭和40年頃 上野国分寺の瓦 14枚 福島氏蔵? 250212 古文書考古学石碑

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大桐木蓮満開  Все лоты продавца
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茨城県石岡市高浜にある広瀬酒造(白菊酒造)の元社長で考古学者の広瀬栄一氏が昭和期を中心に収集された拓本等を追加ご案内致します。
奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇は国ごとに僧寺と尼寺を造ることを命じました。これが国分寺で、後に僧寺が「国分寺」と言われるようになりました。
 当時の群馬県は上野国と呼ばれており、その国分寺は今の高崎市と前橋市の境近くに建てられました。
今からおよそ1,250年前、平城京(奈良県)を中心に全国を約60の国に分けて治める律令政治が行われていました。
 当時、災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、仏教の力でこれを治めようと、国ごとに国分寺を造らせるとともに都には東大寺を建立しました。
 こうした寺院は政府によって造られましたが、各地方の豪族にも協力が求められました。
上野国の国分寺は、政治の中心であり今の県庁にあたる国府の北西に、僧寺・尼寺がそれぞれ東西に並ぶように建てられました。
 歴史書によると旧碓氷郡や旧勢多郡の豪族の協力により、750年頃に主な建物が完成したようです。
 全国の国分寺の中でも、最も早い時期に姿が整ったものといえます。
 僧寺は東西約220メートル、南北約235メートルの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60.5メートルもある七重塔が建てられていました。
 古い記録や調査から1000年頃には築垣や門は壊れてしまいましたが、金堂などは残っていたことが分かります。
 しかし、1380年頃には、それも滅びてしまったようです。その跡は道路などで分断されずに現在までよく残っており、大正15年(1926年)に国の史跡に指定されました。
 現在では、復元された塔や講堂(旧金堂)の基壇がご覧いただけます。塔の基壇は一辺が19.2メートルの正方形で、上面には17個の礎石が並んでいます。塔の規模としては国内最大級です。出典:群馬県ホームページ 史跡上野国分寺跡へのご案内

多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てればそして、故郷に帰る事ができれば大変嬉しいです。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるシミヤケがあります。
発送は追跡可能なクリックポストを予定しています。

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